▶私が子どもだった頃(侍従会 元・副会長 長野 政治)

昭和十年代を過ごした思い出です。私の生家は大道小学校のすぐ裏でした。周りは畑と田んぼばかりで、春から夏にかけてはカエルが鳴き、ホタルも飛び、太い青大将もいました。そして子どもの遊び場所は田んぼ道や畑道、そして当時は土手も低く入りやすかった侍従川でした。

侍従川ではウナギ釣りをして遊びました。当時の侍従川は石垣式で、ウナギの寝床となっていたのです。ウナギは細い竹棒に糸と針を付けた竿を石垣の穴の中に入れて釣ります。ウナギ釣りのプロの人が釣るのを見て、子どもなりに真似をしたのです。私もそうやってウナギを釣りました。他にも侍従川ではフナやハヤ、ハゼ、カニなどを採って遊びました。特にハゼは、自分の庭にある竹に糸と浮きと針を付けた即席の釣り竿を持って諏訪の橋に行き釣ったのを覚えています。釣ったハゼは持ち帰り天ぷらにして食べました。

しかし私たちの遊びはそれだけに留まりませんでした。私が遊び仲間としていたのは『戦争ゴッコ』です。お宮の回りや光伝寺の庭に行き、竹で作った刀で立ち合いをしたり、木の枝を鉄砲代わりにしたりしました。しかし度が過ぎ近所の雷鳴オヤジに叱られることも度々でした。

第二次大戦が始まると畑や田んぼが埋められました。山は火薬発破で崩され、杭木を置いて固定したレールをトロッコが走りました。今の大道小学校も一度埋めた所に建てられたのです。当時は平屋建てで学校としては使用されず軍が使っていました。そしてすぐ横には二階建ての工員寮が五棟も建てられました。

また、軍用道路もできました。道路用地は強制移動させられ、今の四号線である大道の他、西大道にも住宅ができました。私は西大道にできたお風呂屋に入浴に行った思い出があります。こうして山は削られ田んぼや畑も埋められ、私たちの遊び場もどんどんなくなっていきました。しかし、それでも私たちは僅かに残された自然の中で小屋造りや戦争ゴッコをして遊んだのでした。

高等科一年に上がり少し経つと学従動員として工場へ応援に行きました。日本製鋼所へ機械の作業の見習として、朝学校より歩いて行く毎日を過ごした記憶があります。そして昭和二十年八月十五日、終戦とともに学従動員も終了したのでした。

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