▶私が子どもだった頃(川町内会 会長 相川 元治)

我が家は侍従川の岸辺にあり、そのロケーションからも川との深いかかわりを持っています。まず古い話ですが、明治の頃は我が家では船を利用して荷物の運搬をしていたようで、現在は侍従川の改修で姿を消してしまいましたが、侍従川の石垣には船着場の跡が残っていました。なぜこのように侍従川で船が利用できたのか今の方は疑問に思うかも知れませんが、大正12年の関東大震災で侍従川は80cmも隆起したと聞いていますので、今より水深も大分深く船の往来が出来たと思います。

その侍従川は、私の子どもの頃(昭和20年代)は本当に素晴らしい遊び場でした。現在の泥牛橋あたりは水草が生え、ハヤやフナがたくさん居ました。また侍従川は昭和40年代の改修前は川幅も今より4mも狭く護岸も全て石垣ではなく、土手のままのところも多くあり自然に恵まれていました。

我が家のあたりは先ほど述べましたように石垣で、その石垣の隙間にはうなぎがいたようです。うなぎの採り方は、うなぎ針という長い大きな釣り針に糸をつけ、50cmくらいの細い竹竿の先にその針を取り付け、針には餌としてミミズをつけ、石垣の隙間にその竿を差し込んで採っていたようです。残念ながら私は一度も釣れたことはありませんでしたが釣れた人もいました。

もう一つは「カイボリ」と呼んで石垣に対し「コの字形」に土や石で土手を作って囲み、水を堰き止め、囲った土手の中の水をバケツなどで掻い出すと、水の無くなった石垣の中からフナや泥鰌等が出てきてそれを捕ることが出来たのです。私は良く覚えていませんがカイボリの最大の目的は「メリュー」と呼んだうなぎの稚魚を捕ることだったそうで、沢山のメリューが捕れたようです。今だったらこのメリューは高く売れたかもしれませんが、池で飼ったりして自然消滅していたようです。

この他に私の一番の思い出は、我が家には叔父が作ってくれた2m強の木製の小船があり、それを上潮になると漕ぎ出して遊んだことです。下流に下って遠くは京急逗子線の鉄橋近くまで下って行くのです。川辺には多くのギャラリーが見ており子ども心にも得意だったようです。また上潮ですからイナ(鯔の子どもをイナと呼んでいます)が群れを作っていましたのでその群れに向かって手製のモリ(ヤス)を投げイナを捕ったことを覚えています。

その他に船には小型のライトを取り付け、暗くなった時のため明かりが点くようにしていました。とにもかくにも私が子どもの頃の侍従川は絶好の遊び場で、魚捕りや昆虫捕りの毎日で勉強はそっちのけの毎日を楽しく過ごしたことを思い出します。

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