▶私が子どもだった頃(安斎純雄 元・東京都職員)

今は空き地になっている大道一丁目15-16番地の県営住宅に移り住んだのは昭和26年、私が3歳の時でした。30軒の新しい住宅には、私たちのような団塊の世代を中心に子どもが沢山いて、一日中にぎやかに遊び回っていました。
 
小学生になると、高宗(今の高舟)から流れてくる浅い農業用水路で、メダカ、エビ、ヤゴを捕まえたりしました。道路脇の岩窪には、サワガニもいて、夏にはトンボ捕りに夢中になりました。住宅地を回り込んだ用水路が合流する付近の侍従川は、浅めで小さな子でも川岸に下りることができました。そこで、うなぎの稚魚がたくさん群れていたこともありました。
 
当時の侍従川は溢れやすく、この付近は、大雨と深夜の満潮とが重なって住宅数件が床上浸水の被害を受けたことがありました。濡れた家財を乾かしている光景は今でもよく憶えています。
 
高学年になると、カブトムシが集まるクヌギの木を探し当てたり、青木製作所の裏山の大池へフナ釣りに行き、カメを釣ったこともありました。当時、廃墟だった鎌倉霊園のお堂の地下壕を探検したり、六浦駅の近くの友達と徒歩で逗子の海まで往復したこともありました。
 
中学は1年間、六浦中学校に通いました。校庭脇の侍従川は、干潮時は川底のヘドロが臭う川になっていました。大道分校に移り大道中学校の3年生になると、部活動が始まり生物部の顧問の先生が、三年の男子3人を葉山の立石海岸の磯の観察に連れて行ってくれました。綺麗な海で潮が引いた磯には、八景の海では見られない色鮮やかな小魚や貝類がとても珍しいかったです。
 
このような楽しい経験から大学は水産学部に進みました。魚や海の好きな仲間の集まるクラブに所属し、安房小湊の実習場には度々潜りに行きました。大学祭では大きなビニールシートに砂を敷き岩を配置して4畳半くらいの潮溜まりを再現し、磯の生き物や綺麗な小魚を放して楽しんでもらったりもしました。
 
その頃読んだ津田松苗著「汚水生物学」には、水の汚れ具合に応じ、多様な微生物が棲みつき、汚れを食べて水を浄化してくれる。これを上手に応用することで、元の清流に戻すことができる、という仕組みが書かれていました。高校の科学部で、横須賀の平作川の水質調査をした経験からも水質汚濁の改善に関心を持つようになり、水質検査職員として東京都に就職しました。東京都では多摩川の浄化のプロジェクトにも参画しました。
 
4年前に東京都を定年退職し、現在は、神奈川県秦野市に住んでおります。秦野の湧水群が市内に点在するなど水の汚れと無縁の土地柄も何かの御縁と思いながら、名水巡りの市内散策などをして、のんびりと暮らしております。

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