▶私が子どもだった頃(川町内会 小泉元久)
私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。
昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。
大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。
また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。
魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。
当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。
ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。
その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。