▶私が子どもだった頃(西大道町内会 藤田啓次)
私は昭和16年に横須賀の船越で生まれました。国が防空壕を掘るというので家が立ち退きに遭い、父親が海軍工廠に勤めていた関係で3歳の頃ここに引っ越してきました。車のない時代でしたから、船越から乳母車に乗ってきたと聞いています。一番上の兄は九州で特攻隊の飛行機の整備員をやっていました。次男は、浜松から満州に渡った後に終戦になり、ソ連の捕虜になりシベリアに3年くらい抑留されました。その兄が外国から帰ってくるというので、お土産を期待して、大道小学校の先まで迎えに行ったのですが、帰って来た時の兄の姿は、乞食のようでガッカリしました。
私たちが引っ越して来た時は、田んぼが、かなり残っていました。田んぼには、自噴式の井戸があり孟宗竹の筒からジャージャー水が吹き出していました。今から考えると上総堀りで掘った井戸だったと思います。私の家のすぐ近くに侍従川が流れていますが、横浜屋の方向に川が曲がる手前の一段低くなったところに水門がありました。渇水期に田んぼに水をひくために水を溜めてあったのです。横浜屋の隣は今は駐車場ですが、その頃は田んぼで、そこまでU字溝で侍従川の水をひいていました。三浦屋の方にも水路が引いてありました。川幅は、今と変わりませんが深さは子どもが潜ってしまうくらいありました。そこには、たくさんの生き物が棲んでいて、夏になるとヘビと一緒に泳ぐような感じでした。水門を開けた時には、うなぎ、フナ、ドジョウが沢山捕れました。場合によっては石で流れをせき止めて、カイボリをやってフナなどを捕まえることもありました。私たちの遊び場は上流で、中流や下流には行きませんでした。侍従川は、台風シーズンになると溢れることがありました。私の家の床上まで水は来ませんでしたが、床下浸水はよくありました。
西大道には、防火用水がたくさんありました。私の家のまわりにも3つくらいありました。深さが1メートルもありましたので、夏になるとそこでも泳ぐことも出来ました。冬になると侍従川で捕まえたフナを逃がして飼っていました。その防火用水は、年に一度、水を抜いて近隣の人たちが掃除をしていました。その時は、水道も4軒に1個の協同水道で、その水を一晩入れておくと大体一杯になりました。この防火用水は、消火栓の代わりに爆弾が落ちた時にすぐ消せるように海軍工廠が作ったもののようです。
私たちは西大道から朝比奈にかけての山でよく遊びました。ツルを使ってターザンごっこをしたり、お正月になると門松を取りに行ったりしました。竹を取って竹馬なんかも作って遊びました。正月になると凧揚げも良くやりました。凧揚げに夢中になって肥だめに落っこちたこともありました。凧は電、線がないところを狙って、近くのは畑から朝比奈に向かって西向きに飛ばしていました。近くに凧の名人がいて、飛ばなくなると持って行って調整してもらっていました。
ベーゴマ、メンコ、ビー玉も良くやりました。ベーゴマは桶を逆さにして、そこにケンパス布を敷いて戦わせる場所をこしらえました。ケンパスでは、布の目に入ってしまうとベーゴマが動かなくなってしまうことがあるので、家にあったゴムのカッパを使うこともありました。遊びに夢中になってカッパに穴を開けてよく怒られました。
夏のお祭りになると各町内からお神輿が出ました。けんか神輿ではありませんが、町内のお神輿が小競り合いをやっていました。追浜のナタギリからも来ていて、そのお神輿が古くて一番良いものでした。西大道には屋台がありませんので、東大道の屋台に乗り込んで、ひょっとこの面をかぶって踊ったり、太鼓を叩いたりしていました。
朝比奈との交流は少なかったのですが、お百姓さんがリヤカーで野菜を売りに来ていました。相武隧道の先の本郷からも来ていました。私が中学生になる頃まで来ていました。朝比奈の野菜を食べて育ちましたが、私は、大麦を炒って挽いた粉に砂糖をまぶしてお湯でこねた、麦こがしという食べ物が好きでした。
大晦日の夜の10時ころになるとになると、朝比奈峠を越えて鎌倉の八幡様まで歩いて初詣に行きました。夜の朝比奈峠は恐かったですね。その頃は鎌倉霊園の所は、本物の砲台が置かれた砲台山で、今のような整備された道はありませんでした。東京湾からアメリカ軍のB29が攻めて来ると砲台山の高射砲で防戦しました。私の家のまわりにも高射砲の薬莢がバラバラと落ちてくることがありました。砲台山になる前は、逗子の財閥の人が古い仏像などをコレクションして飾っておくような場所だったようです。今でも、鎌倉霊園に行くとお宮さんのようなものが残っていますが、それが名残です。終戦後は、その砲台山の地下に掘られた地下壕でよく遊びました。鎌倉霊園が出来たのは、昭和40年代になってからです。
朝比奈峠の頂上を越して熊野神社への分かれ道の先の右側に平らな土地がありますが、そこに番屋がありました。人が住んでいなくて、廃墟になっていましたので、私たちはお化け屋敷と呼んでいました。池もありました。その辺りに門がありました。昔は朝比奈峠を歩く人を検問していたのでしょう。また、朝比奈峠を越して大刀洗の方に曲がる道の左側に立派な三重塔が残っていました。
六浦駅のところから久木のあたりまで、今はバラ線になっていますが、山の尾根伝いに万年塀がずっとありました。青い色をしていたので、私たちは青壁と呼んでいました。塀を隔てた池子側には米軍の兵隊が鉄砲を持って巡回していました。池子の森は、人が入らないので良い自然薯が沢山あったそうです。朝比奈を中心にプロの芋掘りたちが山に入っていましたが、ここだけは聖域でした。
今の青木製作所の奥には高梨牧場があって牛を飼っていました。そこにも自噴式の大きな井戸があって、段々になったプールのようなコンクリの水槽に水を溜めていました。その水槽で金属製の入り口が丸い大きな容器に入った搾り立ての牛乳を冷やしていました。その牛乳を一升瓶を持って買いに行かされました。
環状4号線は砂利道で所々がコンクリで固めたような道でした。でも、私が中学の頃にはバスが走っていました。バスと言っても煙突から煙を吐き出しながら走る木炭バスでした。発展途上国の写真にあるようにバスの後に人がぶら下がって乗るような状態でした。兄の話を聞くと、船越から金沢八景に泳ぎに行く時は、国道16号線を通るのではなくて海の方を歩いて行っていたようです。その頃は、横浜の三渓園から杉田、富岡、文庫、八景は海水浴場として賑わっていました。杉田までは、キリンビールの工場がある生麦から市電が通っていました。川崎大師に行く線が京浜急行、日の出町のトンネルを境に横須賀側が湘南電車でした。その後、全ての線が京浜急行になりました。
私は、大道小学校の10期の卒業生ですが、当時の校舎は、木造で六浦小学校の分校のような感じでした。今、井戸掘りをやっている辺りに用務員室や食堂があり、給食では米軍が配給した脱脂粉乳を良く飲まされました。衛生状態が悪く、当時の小学生はみんな虱を持っていましたので、駆除のためにDDTの白い粉を背中や頭にかけられていました。野菜の肥料は、化学肥料でなく人糞でしたので、回虫駆除のために、ひまし油を下剤として飲まされました。きたない話ですが、20センチもある長い回虫が肛門から出てくることもありました。栄養状態が良くなかったのでクジラの脂で作った不味い肝油も飲まされました。その頃は、7組くらいあって、ひとクラス60人くらいの生徒がいました。それでも教室が足りなくて、二部授業にしたり、近くの寮を借りたりしていました。
大道小学校の運動会は盛大でした。西大道、大道、川、南川、三双など町内ごとに応援席が別れていて、町内対抗別のリレーがあり、小学校高学年、20代、30代、40代の選手を町内ごとに出して競ってい大変な盛り上がりでした。
六浦中学は、大道小学校よりさらに生徒が多くて10組を越えていました。その頃、六浦中学は、金沢八景の横浜市立大学のキャンパスの中にありました。当時の六浦中学の近くには東急車両、爆発があった東洋化工などがありましたが、当時は海軍の施設があったので地下にケーブルが埋設されていて電柱はほとんどありませんでした。その地下ケーブルのトンネルにもぐって遊んでいたところを先生に見つかって、よく怒られました。
今は、学校の教育について、親が学校の先生に文句を言うことが多いようです。私たちが育てた子どもが親になってやっているので、大きなことは言えませんが、それは少し考え違いをしているのではないかと思います。本来、子どもは学校が育てるのではなく、親が育てるものだと思います。細かい勉強は学校の先生に教えてもらう必要がありますが、普通の生活をするための基本的な考え方や躾などは親がきちんと教えるべきです。私なんか、悪いことをして、学校の先生に怒られたことを親に言うと、「お前が悪いんだ」と、また、怒られるので家に帰っても何も言いませんでした。
また、鉛筆削りが悪いとは思いませんが、いざとなったらナイフで削れるくらいのことは、子どものうちに身につけてもらいたいと思います。ナイフで指を傷つけても落としてしまうわけではないのですから、刃物の扱いを誤ると痛くて血が出ることくらいのことは経験させておいた方が良いと思います。勉強は、いくつになっても、やろうと思えばできますが、子ども時代にみんなと遊ぶこと、色々な体験をすることは、その時にしかできません。勉強ばかりして家の中にひきこもっているのではなく、侍従川で魚をとったり、海の公園で泳いだりして、多少のことではへこたれない、たくましい子どもに育って欲しいと思います。