▶私が子どもだった頃(侍従会 元・会長 相川 澄夫)

昭和20年代から30年代が私の子ども時代でした。高舟台、湘南八景はまだ雑木山でしたし、ハードオフの谷戸は全部田んぼ、青木製作所の奥に高梨牧場がありその奥は田んぼさらに奥にため池がありました。大道中学の谷戸も全部田んぼで山際を細い水路が流れていました。南川の奥も田んぼでその奥に染谷という牧場があり山は雑木山でした。平潟湾は柳町もなく、花火大会が開かれたりしていました。

六浦中学は市大の中の旧兵舎を使っていて、関東学院も木造の旧海軍の建物のようでした。瀬戸には今のローズマンションのあたりに竜宮館というヘルスセンターのような温泉と宴会のできる施設ができました。野島は冬場になると海苔を干すだれが並び、路地はあさりの殻が敷き詰められ海には海苔ひびが立って、いなかの漁師町でした。

大道小の裏門のいまのココスのあたりにはベンケイガ二が護岸の鷹取石の隙間に無数にいて道路にまでゾロゾロといっぱい、はい出してきていました。白黒テレビが町内の床屋に入り力道山のプロレスや栃錦、若乃花、朝潮、吉葉山、などの相撲を何十人という人だかりで見たり、三輪自動車が走り、バスはボンネットバスで車掌さんが乗っていました。相武隧道の向こうは八軒谷戸の地名どおり八軒くらいの農家しかなく環状4号は未舗装のデコボコ道で、神奈中バスにのると穴ぼこの道で天井まで跳ね上がる位でした。

進駐軍をあちこちに見かけ、京急の六浦駅が木造ですぐ横に踏切ふみきりがありました。戦後の海外からの引揚者用の寮も5~6カ所あり空襲で焼けだされた人たちや戦後、台湾、満州、中国、朝鮮などからの引き上げてきた大勢の人たちがこのまちに生活するようになってきました。まさに『3丁目の夕日の時代、トトロの森の時代』でした。

大道小学校が学年8クラス約400名以上いて低学年のときは2部授業で、早番、遅番があり私たちにとっては遊ぶ時間がいくらでもありました。何をして遊んだか思い出しながら、四季に分けて書いてみました。

春は侍従川でめだか、ふな、どじょう、たんぼではおたまじゃくし、ザリガニを捕まえ、ザリガニの身でまたザリガニを釣り、麦の畑ではあおい麦の穂をとって中の実を噛んでチュウインガムだなんて言っていました。山に行ってはサクランボや桑の実を食べ、口の周りを紫色にして夕方家に帰ったものでした。

夏は町内にあった防火用水の水を消防団のおじさんたちが入れ替えて即席のプールをつくり、町内のガキ大将をはじめみんなが遊びました。暑い盛りになるとあちこちで赤痢がはやったり日本脳炎が発生したり、親たちには汚い川には絶対入って遊んではいけないと言われたものでした。確かに今思い出してみると、下水もなく生活排水のたれ流しの川だった侍従川は草ぼうぼうで、汚なく臭いどぶ川だった思います。

それでも隠れて川やたんぼに行ってカエルを捕まえて、おしりに麦の茎やストローを刺さしておもいっきり息を吹き込みカエルのお腹なかが風船みたいに膨らみパ-ンと破裂させたり、アカガエルの身は焼くとうまいと聞き、捕まえてたき火で焼いて食べたり、へびのしっぽを持ってぐるぐる振り回してみたり、トカゲのしっぽをちょん切ったり、毎日が新しい発見で楽しい体験でした。

今のスーパー横浜屋のところが大堰のところまで田んぼで、夜には蛍がいくらでも飛んでいて、うちわで叩くとおもしろいほど捕まえられ、家に持ち帰り蚊帳の中に放して遊んだりもしました。トンボどろと言っていたオニヤンマをとることが自慢だったり、セミ、かぶとむし、クワガタ、カミキリムシなど昆虫はいくらでも身の回りにいました。知り合いの若い衆が川の上流でトラックのバッテリーの電極を水の中に入れて魚を感電させてうなぎを捕まえていたのを見たこともありました。

秋には山ではあけび、栗もぎ 栗の渋をむいてコリコリした生の実を食べたり、民家の柿がたくさん実りどこの家の柿が渋いか甘柿かよく知っていました。秋の十五夜のお月見には、線路で電車に轢かせて平になった5寸くぎを竹の棒の先に着けたモリで、暗くなってからよその家のお月見のお団子やお供えの果物などそおっといただきに行き、ときには失敗して見つかってどなられたりスリル満点の遊びでした。

冬は12月も暮れが近くなると原っぱで凧揚に夢中でした。より高くながい時間飛ばせるか、こま回し、竹うま、など年長のガキ大将から教えてもらいました。めんこ、ビー玉、ベーゴマ、ちゃんばら、戦争ごっこ、等々、書いていると子どもの頃のあの子この子と顔や名前が浮かび、今は60から70歳になる皆がなつかしく思い出されます。

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