▶私が子どもだった頃(侍従会 廣瀬隆夫)
私は昭和30年(1955年)に大道で生まれ、侍従川の近くで育ちました。小さい頃は、パソコンもゲームもありませんでしたが、自然がたくさんあって山と川が遊び場でした。
祖父から聞いた話ですが、明治・大正時代の侍従川は、舟を浮かべて海から物を運べるくらい深かったそうです。関東大震災の時に三浦半島全体が隆起したために今の水量になったということです。泥牛橋の近くに昔の川の石垣が見えていますが、昔は川幅が今よりずっと狭くて大雨が降ると氾濫することがありました。伊勢湾台風の時にも氾濫して、今は空き地になっていますが、そのころ建っていた県営住宅の床上まで水が来たことを覚えています。改修工事をして川幅を広げてからは氾濫することはなくなりました。
大雨が降った後は、上流から色々なものが流れて来ました。時には大池(ブックオフの奥にありました)から錦鯉が流れて来たりしました。当時は侍従川に鯉は住んでいなかったので珍しかったのです。ゴミが流されてきれいになった侍従川に入ってメダカやフナを獲るのも楽しみでした。千歳園の横に下水用の土管が埋まっていますが、その工事現場で友だちと大きなウナギを捕まえたことがあります。1週間くらい池に放して泥をはかせた後に、父にさばいてもらって蒲焼きを作ってもらって食べました。蒸さずに焼いたので堅かったのですが、始めて食べた蒲焼きの味は今でも忘れられません。
大道中学の裏山は、道が鎌倉の天園まで続いていて山菜の宝庫でした。春になるとウドやワラビ、ゼンマイ、タラの芽、野生のシイタケなどが採れました。採った山菜は、祖母に料理してもらってワラビ飯などにして食べました。大道中学の奥は深い谷になっていて茅やすすきが一面に生い茂った場所がありました。マムシがたくさんいたのでマムシ谷とも呼ばれていて、子どもが噛まれることもありました。そこでカエルを捕まえて、西大道にあった防火用水でカエルの水泳大会をやって遊びました。
大道中学の横の川は、今では蛍がたくさん住んでいますが、その頃は蛍はいませんでした。私が大道中学に通っていたときに、生物部が南川の田んぼから蛍の幼虫やカワニナをとって来て放しました。今の蛍は、その子孫かもしれません。上流の水源の近くの川底からは清水が湧き出していました。そこには透明な水生エビやゲンゴロウ、ハヤなどがいました。秋になると山から竹を切って、釣り竿にして関東学院の前あたりで、ハゼ釣りをやりました。餌は近くの土をほじくり返して捕まえたミミズです。釣ってきたハゼは昆布巻を作ってもらって食べました。竹といえば、八つ手の実を玉にした竹の鉄砲もよく作りました。上手にできた竹鉄砲を打つとパンと驚くほど大きな音がしました。
東京オリンピックが終わって日本経済の高度成長が始まったころから、山や谷が崩されて大道の地形が大きく変わって行きました。大道中学の谷戸も埋め立てられました。侍従川の改修工事も行われましたが、その頃から川が汚れてきました。最初に川の底が、気持ちの悪い昆布のような藻に覆われました。次にイトミミズやアカムシ(ユスリ蚊の幼虫)が増えました。川全体が悪臭を放って、生き物の姿が全く見えなった時期もありました。
そんな侍従川が本当にきれいになりました。下水道を整備したり、侍従会のメンバーや近隣の小学生による葦の植栽や清掃活動の効果がでてきたのだと思います。今では侍従川は緑に覆われ、ゲンジボタル、ハグロトンボ、クロメダカ、カルガモなどのたくさんの生き物が住むようになりました。
侍従川は照手姫伝説の時代から何百年も流れ続けています。これからもずっと枯れることはないでしょう。子どもたちが大人になった時に、侍従川で、こんな魚を捕ったとか、友だちとこんなことをして遊んだ、などの楽しい思い出を次の世代の子どもたちに語り継いでもらえたら良いなあ、と思っています。