▶私が子どもだった頃(侍従会 元・事務局 長橋 輝明)
私は、1946(昭和21)年、横浜市鶴見区の東寺尾というところで生まれました。大道には1,2歳の頃に引っ越してきたようです。住まいは大道小学校の向かいあたりです。まだ小さいときだったので思い出はあまりないのですが、兄たちはここの思い出がたくさんあるようです。
昔は弟の面倒見も兄たちの役割の一部というような時代でしたから、弟の私をおんぶしながら遊んでいたようです。でも、おんぶしていると、「かけっこ」や。「おにごっこ」が出来ないので、そういう時は弟の私を木に縛ってから遊んだようです。
現在の住まいの六浦には3歳のころに引っ越ししてきました。遊んだのは裏山が中心だったと記憶しています。「かくれんぼ」や「ぼかんすいらい※」などで遊んだことをよく覚えています。その遊びのグループには必ずリーダーがいて、遊びやらなにやらを仕切る役割をしていました。
※「ぼかんすいらい」という遊び、多分「母艦・水雷」からきている名前だと想像されますが、2グループに分かれて、相手を捕まえるようなゲームです(水雷の役割)。基地は目立つ大きな木などが使われます(母艦の役割)。追いかけられた人が基地にもどると相手はその人を捕まえることが出来ないのです。
その当時はみんな、おこづかいなどはもらえる時代ではなかったので、柿、栗など季節の果物をとって食べたりしてました。とりに行く場所やとり方などはグループのリーダーが教えてくれるのです。遊びの場所や相手はいつでも自然でした。遠浅な乙舳(おっとも)海岸※の海水浴や潮干狩り、平潟湾での潮干狩りやはぜ釣りも楽しみのひとつでした。この頃の平潟湾では、この湾付近でとれた海苔を干している光景がたくさん見られました。いまではあまり見かけませんね。
※乙舳海岸:今は埋め立てられてしまい、埋め立て後は現在の「海の公園」になっています。
小学校高学年の夏はほとんど逗子の海岸で遊んでました。遠泳で、浪子不動から鎧摺(あぶずり)までよく泳いだものです。ここでもリーダーの役割は大きく、まだ泳げないメンバーは、鎧摺の港の出入り口の堤から投げられます。必死に泳いで、自然と泳げるようになる訳です。みんな、自然を相手に、そして仲間とともに遊んでいたのですね。
自然と遊んだりすることによって、自然の大切さも知ります。また、仲間と遊んだりすることによって、仲間でいることの楽しさ・仲間意識、その仲間本意の正義感、自分の欲求があっても時にはがまんや忍耐が必要であったりして、適切に自分をコントロールしながら対人的なスキルを持てるようにということを自然と学んでいたのでしょうね。
都市化が進んだ現在は、自然も遊び場も少なくなってきて、子どものグループそのものが作られなくなっていて、社会的な対人スキルを学ぶ機会も少なくなってしまっています。侍従会では友だちや違う世代のおじさんおばさんたちも一緒に、自然に触れながら楽しく活動をしていきたいと思いますね。すこしでも自然に触れながら対人スキルも学べれば幸いです。