▶私が子どもだった頃(六浦3丁目在住 高桑正敏)

<侍従川への流れ>

私は団塊(だんかい) の世代のピーク、つまり1947年(昭和 22年)10月生である。いま住んでいる場所(六浦 3丁目)で産まれ、そこから居を移したのは新婚(しんこん) 時代の2〜3年間なので、生粋(きっすい) の「六浦っ子」に近い。昔は 1階(かい) 建てで狭(せま) かったが、両親と姉、祖 母、それに小学校低学年の頃までは父の弟も住んでいた。

この家は六浦小学校周辺とその北側に広がる谷(や) 戸(と) の当時新しい住宅地の一角(いっかく) にあり、西ヶ谷戸という小字名があった(しかし小学校に近い地域を六浦小学校裏と言っていた) 。幼(おさな) いころは西ヶ谷戸の住宅もまばらだったようで、自宅のすぐ前はまだ田んぼが残っていて、そこでホタル(たぶんヘイケボタル)を見た記憶がかすかにある。小学校に入る前には六浦保育園(長生寺に併設(へいせつ) されていたらしい)に通っていたが、その保育園はだいぶ前に廃園(はいえん) となった

西ヶ谷戸には北から南へと向かう川があった。源流の 1つは北西に位置する「お池」と呼ばれるため池から流れ出て、小さな川となって自宅のすぐ横を通り、小学校の西側と南側に沿って流れていた。北の源流は釜(かま) 利(り) 谷(や) ・白山道へと続くトンネル付近からで、六浦白山道線沿いに流れ、ほどなく西南へと向きを変え、「お池」からの川に合流した。この 2本とは別に、東の3〜4ヶ所からも小さな流れが出ていて、その北側の一部は小学校の北側で「お池」からの川に注いでいたようであり、また南側の一部は小学校の東側を通って、正門近くで西側の「お池」からの川と合流した。ここから少し流量を増して長生寺の下を通り、原宿六浦線を越えてそのまま南へと向かい、侍従川にそそぎこんでいた。もちろんこれらの流れはすべて、とうの昔に暗渠(あんきょ) と化(か) してしまい、いまでは面影(おもかげ) すらない。この川は、侍従川の支流(しりゅう) としては決して小さくないので、あるいは支流名もあったかもしれないが、残念ながら記憶にない。

<西ヶ谷戸の原風景>

西ヶ谷戸をぐるりと囲(かこ) む馬蹄型(ばていがた) の丘は、子どもたちにとってはまるで城壁(じょうへき) か山脈のようだった。いま思えば低い丘だが、やや傾斜(けいしゃ) が急だったためか、ほとんどが雑(ぞう) 木林(きばやし) となっていて、そこを越えてよその地域へと行くのは気が引けた。とくに「お池」から登る西方面の丘(現在の高舟台)は山が深く、尾根沿いに小径は続いていたはずだが、小学生の頃は深入りした記憶がない。丘の中で名前が付いていたのは、南東端に位置する「おいせ山」だけで、この地ではシンボル的なイメージをもっていた。ここに登れば、眼下 の侍従川から平潟湾と野島、緑豊かな鷹取山(たかとりやま) 、そして東京湾の向こうに房総(ぼうそう) 半島(はんとう) の山々も見えた。

谷戸の中でのシンボルは「お池」であった。三方を雑木林の丘に囲まれたため池で、周囲は50〜60mほどだっただろうか。北側には小さな谷があり、そこだけはスギ植林地(しょくりんち) となっており、ごく小さな流れが走って「お池」に注いでいた。池の東半分は崖状(がけじょう) だったが、西半分は緩やかなエコトーン状態になっていた。ここにはフナとコイがすんでいて、大人も子どももみなで釣りを楽しんだものである。もちろん「お池」はめ立てられ、そのすぐ北側は八景台という住宅地に開発された。周辺の地形はすっかり変わってしまい、いまではそれこそ見る影もない。

「お池」の東南端からは水が流れ落ちていて、前述したように自宅の脇を通過していた。この小さな流れにも中小のフナがすんでいて、ハグロトンボも見られた。私の家から池までは直線距離でせいぜい 170mほどの短さだったが、その流域(というほど広くないが)は田んぼや畑が広がり、家はまばらで、いま思えば里地的(さとちてき) なイメージを感じる。このネコの額(ひたい) ほどに狭(せま) い流域も、子どもたちの遊び場であった。

<自然の中での遊び>

小学生の頃の遊びにはいろいろなものがあった。外での遊びだけでも、虫捕り、釣り、相(す) 撲(う) (も) 、カン蹴(け) り、竹馬、木登り、メンコ、ビー玉、ベーゴマなどなど。とにかく、同世代の子どもが多かったこともあってか、学校から帰るとわれ先に遊び場に集まって騒(さわ) いだものである。

西ヶ谷戸を囲む丘は、私有地でもほとんどどこにでも入れた。自分たちだけの秘密の小屋も造った。クズ?の垂れ下がった蔓(つる) を使ってターザンごっこも流(は) 行(や) った。長いネザサを切ってきては釣り竿(ざお) にしたり、棒代わりにした。マダケかモウソウチクも切って竹馬の材料としたが、これは叱(しか) られないようにこっそりとやったかもしれない。ヤマノイモもどこにでも生育(せいいく) していて、晩秋〜冬季には山(やま) 芋(いも) 掘(ほ) りもけっこう盛んだった。秋の味覚としてク
リとアケビも重要だった。

東の丘の上には戦時中に造られたらしい四角いプールがあった。もちろん泳ぐためのものではないどころか、周囲すべてをコンクリートで固められていて、危険ゆえ遊泳は禁じられていた。有(ゆ) 刺(し) (う) 鉄線で囲まれていたが、当時の悪ガキ連中は夏になると、当たり前のように有刺鉄線の隙間から入り込み、そこで泳いでいた(多くはパンツもつけない状態=フルチンと言った)。私は泳げなかったが、ギンヤンマがお回りしていたので、それを捕えるべくよく通った。あるとき、網を振った勢いでプール内に転落した。幸いにして、みなが水遊びに興(きょう) じていたときであり、年長の者に助けられたが、親に知られるとこっぴどく怒られるので、着物が完全に乾くまでフルチンでいた思い出がなつかしい。

「お池」での釣りはフナやコイだけではない。大きなメダカも多く、私はこれを釣るのが得意だった。浮きの直後にフナ用の小さな針をつけ、水面に投じると、メダカがこの餌(えさ) に食いつく。しかし口が小さいので針はかからない。それゆえうまく引き寄せ、瞬時(しゅんじ) に餌に食いついたままのメダカを釣り上げる。また、すでにアメリカザリガニが大繁殖していて、この釣りもよく行った。。網で捕まえたアメリカザリガニの腹を胸部から千切り、硬い甲羅をはがしたものを餌に、真っ赤になった大きな個体(マッカチンと呼んだ)を狙うのである。針は使わず、また糸はテグスでなく木綿糸でも十分だった。

平潟湾での海釣りも盛んだった。ハゼ狙ねらいであるが、まれにカレイもかかった。私が好んだのは、金沢八景駅近くの弁天島からの釣りである。ここでもメダカ釣りの技術がモノを言った。なにしろ海水がキレイなので、水中にいるハゼが見えるのである。金沢八景の景色が本当に八景だった頃である。

<昆虫採集>

もちろん昆虫を捕えることも男子の“仕事”だった。当時は捕(ほ) 虫網(ちゅうあみ) といった高級?なものは市販されておらず、せいぜい駄菓子屋で魚採り用の口径(こうけい) の小さなものを使っていた。それでギンヤンマを狙(ねら) うのである。「お池」の水際をお回りするオスを狙ったり、上空を飛ぶ個体めがけて小石を放り投げ、餌(えさ) と勘違(かんちが) いして小石を追って急降下(きゅうこうか) する個体を捕まえた。ギンヤンマのオスは子どもたちにとって人気者だった。

私だけはチョウ採り専用の網をもっていて、みなにうらやましがられていた。親が太い針金で枠(わく) を作り、それにスカーフの生地で縫ってもらった網を通してくれたのである。もっとも、スカーフ生地では目が細かすぎて、勢いよく振ってしまうと、風圧でチョウが入らなかった。ただし網の問題もあってか、子どもたちにはチョウはそれほど人気がなかった。

道具としては、セミ採り用のものもあった。針金で直径 10〜15cmの輪を作り、それを竹の先に取りつけ、コガネグモやジョロウグモの巣を巻きつけたものである。けっこうネバネバしていてよく採れたが、何度も使っているうちに粘(ねば) り気がなくなり、ミンミンゼミのように勢いのよい個体は手元に引き寄せる前に逃げられてしまう。ほかにニイニイゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシは多かったが、クマゼミだけはきわめて稀(まれ) で、それこそ一夏に 1回か2回の鳴き声を聞く程度であった。私はクマゼミを捕えたことがなく、級友が自慢げに持ってきた標本(ひょうほん) がうらやましかった(侍従川近辺で採集したものかどうかは知らない)。

カブトムシとクワガタも人気者だった。夏休みになると、早起きして丘に行き、自分たちの持ち場を見て回った。当時のクワガタの人気者は大型のミヤマクワガタで、ノコギリクワガタは分布していなかった( 1990年代にはミヤマクワガタはほとんどいなくなり、逆にノコギリクワガタが見つかった)。カブトムシとクワガタ採りは日没直後のほうが効率(こうりつ) よいが、当時はだれも夜に探しにいかなかった。おそらく夜は恐怖(きょうふ) 心(しん) があるのと、親が出歩くのを許してくれなかったせいだろう。捕えたものはスイカの食べかすを餌(えさ) として与えていた。

当時の樹液(じゅえき) は、圧倒的(あっとうてき) にクヌギがよかった。燃料はまだまだ薪(たきぎ) や炭が主体だったので、西ヶ谷戸の丘でもどこかしらで伐採がなされていた。このため若い雑木林が健在(けんざい) であり、クヌギも樹液の出るほどよい太さだった(直径 15cmを超えるとシロスジカミキリによる樹液は出ない)。それゆえ樹液ポイントはたくさんあった。

<オオムラサキはいたか?>

日本の国(こく) 蝶(ちょう) であるオオムラサキは神奈川県のほぼ全域(ぜんいき) に分布していた(現在では相模川以東ではほぼ絶滅(ぜつめつ) )が、例外的(れいがいてき) に箱根火山ではごく一部に限られ、また三浦半島も分布していない。では、横浜市金沢区ではどうかと言うと、少なくとも円海山周辺には生息(せいそく) していた(私自身が1970年頃に幼虫を採集している)。過去の文献(ぶんけん) をひもとけば、鎌倉市十二所や神武寺〜鷹取山の記録が出てくる。これらの地域は円海山からの山続きでもあるので、過去に生息していた可能性は十分にある。ただ、円海山方面からたまたま飛(ひ) 来(い) (ら) した個体の可能性もないではない。こうした状況(じょうきょう) を考えるなら、分布しているかいないかの境界は、どうやら侍従川周辺にあったと考えてよいだろう。

では、西ヶ谷戸ではどうだっただろうか?小学生からのチョウ好きであった私にとっては、もちろんオオムラサキは憧(あこが) れの的(まと) だった。しかし、影すらも見かけたことがなかった。ところが中学生のとき、「おいせ山」でオオムラサキを採ったという鼻高々(はなたかだか) の級友が現れた。私は驚(おどろ) き騒(さわ) いだが、標本(ひょうほん) を見せてと言ううちに、「じつは逃げられた」という。彼は間違いないと主張したが、ほら吹きの気がある奴だったので、子ども心にも100%の信用を置くべきでないと感じた。そもそも、私自身が幼少の頃から何度も足を運んだ西ヶ谷戸周辺の丘、それも足しげく通った「おいせ山」に、オオムラサキが生息していたとは考えにくい(ちょっと自信過剰(かじょう) かな?)。

<なつかしの植物たち>

植物の中では、丘でヤマユリを探しては各自の庭に持ち帰った。花をたくさん付ける年数を経た個体が人気だったが、そうしたものは崖上(がけうえ) など危険で入れない場所以外では採り尽くされた感があった。珍(めずら) しいものではシランがあった。子どもにはそれほど人気がなかったように思うが、当時すでに2〜3か所でしか見かけなかった。その中で、白山道へのトンネルの崖上に群生(ぐんせい) していたものが最後まで残り(採集できないゆえ)、白花の個体も交えていたので目を楽しませてくれた。トンネルの改修(かいしゅう) 工事のためだろうか、残念ながらだいぶ前からその姿がない。もしかすると自然状態のものは、侍従川流域全体としてもほとんど絶滅(ぜつめつ) 危(き) 惧(ぐ) 状態(じょうたい) になっているのかもしれない。民 家の庭に植えられている姿を見るにつけ、複雑(ふくざつ) な思いにとらわれてしまう。

当時はまた、シュンランはじめエビネ、キンラン、ギンランなどのラン科植物、それにカントウカンアオイも多かった。エビネやシュンランなどはそれこそどの雑(ぞう) 木林(きばやし) でも普通に生育(せいいく) していた。山野草ブームもまだまだ下火だったのであろう。

いまでは防災上の観点(かんてん) から、崖面(がけめん) のほとんどはコンクリートやフリーフレームで覆(おお) われている。しかし、小学生や中学生のころは、どこにでも露頭があった。その露頭を調べるといろいろな貝化石が見つかったものであるが、崖面に好んで生育する植物、とくにコモチシダやオニヤブソテツ、ホウライシダ、タチシノブなど各種のシダ植物で覆われていた。ホウライシダは外来生物だが、金沢八景周辺にはとくに多く、当時すでにどの崖面や石垣(いしがき) にも密生(みっせい) していた。

<六浦小学校の受難>

私が通っていた六浦小学校は、2度にわたって大きな被害を受けた。3年生のときだったか、横浜市立大学の北隣(きたどなり) にあった東洋化工の工場が轟音(ごうおん) とともに爆発(ばくはつ) し、爆風(ばくふう) で校舎(こうしゃ) の窓ガラスのほとんどが割(わ) れた。ちょうど授業中で、舞(ま) い上がった埃(ほこり) のために一瞬(いっしゅん) にして教室内が煙幕状(えんまくじょう) になった。顔や頭から血を出していた者もいた。訳のわからぬまま校庭に避難し、それから連(つ) れだって大道小学校に向かった記憶がある。私は額(ひたい) から少し血が出ていた程度 ですんだが、重傷(じゅうしょう) を負(お) った級友(きゅうゆう) もいた。自宅もまた窓ガラスが飛び散って悲惨な状況(じょうきょう) だったが、不幸中(ふこうちゅう) の幸(さいわ) いと言うか、祖(そ) 母(ぼ) が顔をちょっと怪我しただけですんだ。死者も出たことであり、新聞やテレビでトップニュースになった。

大学生のとき?には校舎が火事に遭(あ) った。私はたまたま家にいて、その様子を見に行った。昼間の火事ではあったが、真っユーラシア大陸北部で繁殖し、冬になる赤に高く上がる炎(ほのお) は恐(おそ) ろしい光景(こうけい) であった。木造(もくぞう) 2階(かい) 建(だ) てであったためにほとんど全焼(ぜんしょう) してしまったが、これこそ幸いと言うか、ようやく新しい校舎となった。人的(じんてき) な被 害はなかったと思うが、隣接(りんせつ) する養鶏場(ようけいじょう) にも燃(も) え広がって、たくさんのニワトリが犠牲となったらしい。

<西ヶ谷戸の外の思い出>

小学校でも評判だったというほど昆虫少年の私は、西ヶ谷戸の外に出ることはあまりなかった。人にはお茶ら気者に映(うつ) ったらしいが、じつは内気な性格(せいかく) だったので、自分の域外(いきがい) に出ることをためらったのかもしれない。

西ヶ谷戸からトンネルの向こう(現在の釜利谷南や釜利谷東)は、宮川の1支流(しりゅう) を伴(ともな) う細長(ほそなが) い谷戸となる。ここは小学生の頃は一面に水田が広がっていたが、時代を追うごとに畑が増え、建物も立つようになった。水田は「農薬につき立入禁止」のような立札(たてふだ) があったので、相当(そうとう) に強い農薬がまかれていたのだろう。遊んだのは主に川の中で、手子神社付近までがテリトリーだった。ここにはウナギもすんでいた。

宮川は谷津町方面からの川と合流し、平潟湾に注ぐ。このあたりは小学生の頃までは泥(で) 亀(き) (い) 新田(しんでん) と呼ばれる広大な湿地で、水田やハス田、ヨシ原が広がっていた。ベッコウトンボもいたという。自宅からは遠かったが、何回か歩いて行った。しかし、中学生になった頃からは大規模(だいきぼ) に埋(う) め立てられ、最後まで残った金沢高校(私の母校)と横浜市立大学前の湿地も、高校入学時( 1963年)には工事のために立ち入り禁止となってしまった。高校の生物部で泥亀新田のちゃんとした調査をしようと思っていたので、ひどく落胆(らくたん) したことを鮮明(せんめい) に覚えている。風光(ふうこう) 明媚な場所として知られていた金沢八景の、「八景」が次々と失(うしな) われていった頃でもある。

侍従川流域(りゅういき) に戻(もど) ろう。朝比奈付近から現在の釜利谷西方面は、それこそ西ヶ谷戸にすむ小学生にとっては山奥(やまおく) だった。せいぜい遠足?で朝比奈切通しを歩いたくらいであったと思う。ただし、中学 2年の冬からはたびたび山に入るようになった。六浦中学校に平沢愛三という副校長が赴(ふ) 任(ん) (に) し、私にシダ植物を指導してくれたので、昆虫が見られなくなる晩秋(ばんしゅう) から早春(そうしゅん) にかけてはシダ調査に熱中し、金沢区南部から横須賀市・葉山町一帯の山々を歩くことになったからである。ただ、池子との境は鉄条網(てつじょうもう) が張(は) り巡(めぐ) らされていたし、中に入ると軍犬が襲(おそ) うというウワサを聞いていたので、中学生になっても鉄条網沿 いの道を歩くにも怖かった思いがある。

間近に見える鷹取山も、頻繁(ひんぱん) に訪(おとず) れるようになったのは中学生以 降である。最初に訪れたのは小学生高学年のときである。神武寺駅から登ったが、境内(けいだい) の茶店のおばさんに寄(よ) っていくように誘(さそ) われ、何を食べたか記憶にないが、とにかく帰りの電車賃(ちん) がなくなって、泣きたい気持ちで歩いて帰った。

<おわりに>

私事だが、小学校 2年生のときに交通事故に遭(あ) って頭を強打した(ぶつけた車のフロントが凹(へこ) んだ)。そのせいだろうか、幼(おさな) い頃の記憶がおぼつかない。もし私の思い込みや勘違(かんちが) いで記したことがあったらご容赦(ようしゃ) いただきたい。もっとも今は60も半ばなので、近い過去すらも忘れ去ってしまうことが多い。余計なことまで言えば、老練になったせいか、都合の悪いことはなおさらである。

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